松崎しげるさん、皆さんご存知ですか???
すごくテレビに出ているわけではないけど、「松崎しげる」と聞けば、色黒で代表曲『愛のメモリー』が頭に思い浮かぶ人が多いのではないかと思います。
歌手デビューして54年と、長きにわたり芸能界で活躍している松崎しげるさん。
今回は、その松崎しげるさんがどんな人なのかを考察していくとともに、『愛のメモリー』の誕生秘話、2024年10月に永眠され、松崎さんの親友であった西田敏行さんとの関係についても調べてみました。
少しばかりお付き合いください。
松崎しげるさんってどんな人?(プロフィールや経歴)
まずは、簡単にプロフィールをまとめてみました。
プロフィール
氏名 | 松崎しげる(本名:松崎茂幸) |
生年月日 | 1949年(昭和24年)11月19日(2024年11月14日現在、74歳) |
出身地 | 東京都江戸川区 |
学歴 | 日本大学藝術学部 |
趣味 | 料理、野球観戦、天体観測、釣り、クルマ、スキューバダイビングなど |
特技 | ギター、即興音楽、ゴルフ |
結婚 | 結婚歴3回 |
家族 | 妻、長男(俳優の松谷優輝、26歳)、長女(24歳)、次女(17歳) |
皆さんご存知の方、多いと思いますが、松崎さんはこんな方です。
この投稿をInstagramで見る
人に見られる仕事をしているからいろいろなケアをしているとは思いますが、これで74歳って、お若いですよね。
私は幼い頃から知っていますが、その頃とあまり変わっていないように見えますね。
経歴
大まかですが、松崎さんの経歴をまとめてみました。
小学生時代 | 週末、後楽園球場でのプロ野球観戦が楽しみ |
高校時代 | 甲子園の常連高、日大一校に進学し野球部に入部 |
大学時代 | 友人と、バンド『ミルク』結成 |
1970年 | 『8760回のアイラブユー』でソロ歌手としてデビュー |
1972年 | 『黄色い麦わら帽子』がスマッシュヒット、結婚 |
1974年ごろ | 不遇時代。同じく売れない俳優だった西田敏行さんと出会い、意気投合 |
六本木周辺の飲み屋で、松崎さんギターを弾き、西田さんが歌うという形の即興演奏が話題に。 | |
1975年 | 西田敏行さんとTBSの『西やん松ちゃんのハッスル銀座』に出演 |
1976年 | マジョルカ音楽祭に『愛の微笑』で出場し、最優秀歌唱賞受賞 |
1977年 | 『愛の微笑』のタイトルを『愛のメモリー』に変え、大ヒット |
第28回紅白歌合戦に出場 | |
1979年〜1981年 | TBSドラマ『噂の刑事トミーとマツ』(第1シリーズ)放送 |
1981年 | 2回目の結婚、大田区に新居を構える |
1982年 | TBSドラマ『噂の刑事トミーとマツ』(第2シリーズ)放送 |
1997年 | 3回目の結婚、品川区の高層マンションに転居 |
2015年 | デビュー45周年、本人主催の音楽フェス『黒フェス』開催 |
野球が大好きな松崎さん。
江戸川区で評判の選手と言われ将来の夢はプロ野球選手だったそうです。
強豪高校の日大一高に進学し、甲子園を目指し、一年生の秋にはレギュラーになっていました。
しかし、2年声の夏、練習の際、先輩が素振りしていたバットが松崎さんの肩にあたり怪我をしてしまい、結局その怪我により、野球甲子園出場の夢、野球自体も諦めることになってしまいました。
もし、そのアクシデントがなく、そのまま野球を続けていたら、もしかしたら、夢を叶えてプロ野球選手になっていたかもしれませんね。
野球を諦めて本人自信腐った時期もあったようですが、音楽に出会ったことによって今があることを考えると、人生は何がどう転んでそれがどう進んでいくのかわかりません・・・と思う反面、その道を作っていくのも結局は自分なのだな・・・とも言えますよね。
『噂の刑事トミーとマツ』、懐かしいですね。
私がまだ小学生だったのですが、毎回家族で見ていました。
ガサツで声の大きいマツと、気弱なトミー。
物語終盤でのトミーの豹変っぷりに、純粋に笑って楽しんでいたのを覚えています。
キャスト紹介のオープニングでの林隆三さんや井川ひさしさんなど、今でも頭の中で映像が再生されます(笑)。
刑事ドラマというのは、ドラマの定番のようなカテゴリーで、当時は、『太陽にほえろ』『西部警察』などありましたが、今では、バディもの(二人組)の刑事ドラマはよく見受けられますが、『トミーとマツ』はバディもの先駆けだったようねですね。
オープニングとエンディングの映像がありました。
懐かしすぎる(笑)。
誰もが知ってる?!『愛のメモリー』誕生秘話
松崎さんの代表曲といえば、皆さんご存知、『愛のメモリー』ですよね。
誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか???
映像を見ても分かる通り、すごい歌唱力ですね。
一曲売れて数年はメディアで見かけるけど、今はもう見ない・・・なんていう歌手やミュージシャンは大勢います。
でも、松崎さんの場合、ヒット曲がたくさんあるわけではないですが、この『愛のメモリー』といえば『松崎しげる』となるように、一つの代名詞になっていて、現在も各方面に出演しているということを考えると、松崎さん自身がこの曲だけに頼ることなく、時代時代に合わせて自分の売り方を考えているんだろうな・・・と感じます。
ところで、経歴にも書きましたが、1976年にスペインのマジョルカ音楽祭というものに出場しました。
声のボリュームでは海外の歌手に負けない自信もありました。スペインのマジョルカ音楽祭に出場した時も、僕の倍はありそうな体格の海外の歌い手たちが舞台の袖でガタガタ震えている中、まったくプレッシャーを感じることなく歌えましたから。
歌への情熱は誰にも負けないという自信があった松崎さんは、『愛の微笑み』(のちに一部歌詞を改変し『愛のメモリー』と曲名が変わる)を熱唱し、海外アーティストが多くいる中、総合第2位、最優秀歌唱賞を受賞しました。
自信作が遠く離れた異国で高評価をもらい、ブレイク間違いなしとばかりに意気揚々と羽田空港に凱旋したが、現実は厳しかった。当時、想像以上に国内では海外の音楽祭の認知度は低く、取材依頼はゼロ。「すごい曲だから」とレコード会社に持ち込んでも「ダメダメ。こんな難しい曲はいらない。みんなが口ずさめる曲にして」と評価は芳しくなかった。
『松崎しげる、スペインx万葉集=愛のメモリー「曲がいろんなドラマを見せてくれた」』
スポーツ報知 2020.9.8 より引用
輝かしい受賞と高評価にもかかわらず、国内では取り上げられなかったようですね。
今のように海外はとても近いもの、そして海外で活躍する日本人も多くいますが、当時はそうではなかったんですね。
結局、諦めきれなかった松崎さんは、以前もCMソングを歌った「グリコ アーモンドチョコレート」の担当者を自ら訪ね、担当者が気に入り見事、CMソングに採用されたようです。
さらに、この曲で、松崎さんは紅白歌合戦にも出場しました。
そして、なんと、第50回センバツ高校野球の入場行進曲にも選ばれたのです。
怪我によって儚く散った野球選手としての甲子園出場という夢を、歌手として出場し自身の夢を違った形で叶えたのです。
バックネット裏でその入場するシーンを見た時が、松崎さん自身、一番嬉しかった瞬間だったそうです。
高校野球と『愛のメモリー』ってあんまり結びつかない感じもします(笑)が、【グリコのCM担当者に持ち込む】という松崎さんの行動がなければ、『愛のメモリー』は日の目を見ることなく、そして夢を叶えることもなく、現在までの松崎さんの活躍ななかったかもしれません。
なんて素晴らしいエピソードなんでしょう!!!
色黒の松崎しげるさんと音楽フェス『黒フェス』
松崎さんのもう一つのトレードマークは、色黒ではないでしょうか???
僕の肌にも合う色、見つかりました🤙🏿
30色展開クッションファンデーション!
TikTokに動画も載せてるよ~🌟TIRTIRのPOPUP実施も決定🌟
詳細は公式SNSをチェック!!@tirtir_jp #PR #TIRTIR #ティルティル #君色ファンデ #松崎しげる #君は何しげる #100しげる #レッドクッション #マスクフィット pic.twitter.com/jdDguKhQTQ— 松崎しげる (@shigeru_mats) July 26, 2024
この投稿の写真は、周りの赤色につられてやや肌も赤黒く見えますが、どうやら松崎さんは、元々地黒だそうです。
ここでは、松崎さんの色黒のことや、色黒からスタートした?音楽フェスについて考察していきます。
地黒のためにしていること
ハワイなどの南国で休暇を過ごすことが多く、それもあって、「色黒」が定着したようです。
そして、その色黒をキープするために、日焼けサロンに通っているそうなんですが、事務所に日焼けマシーンを設置し、さらには、ついに自宅にも日焼けマシーンを設置したそうです。
ちなみに、松崎さんは、「日焼けマシーン」と呼ぶのをあまり好んでいないらしくて、事務所と自宅の日焼けマシーンに名前をつけているようです。
事務所のマシーン・・・マイアミ
「ちょっとフロリダ行ってくる」、「マイアミ行ってくるわ」なんて言っているんでしょうかね(笑)。
音楽フェス『黒(96)フェス』
2015年、日に焼けた肌で多くの人に親しまれており、また2015年がデビュー45周年でもあったこともあり、所属事務所が9月6日(クロ)を「松崎しげるの日」と「日本記念日協会」に申請し、見事認定されました。
そして、この年から、毎年9月6日は、松崎さんが主催の音楽フェス『黒フェス〜白黒歌合戦〜』が開催されています。
出演しているアーティストも豪華で(詳しくは↑のオフィシャルサイトやyoutubeを参照)、2024年はご長男の『松谷優輝』さんがMCを務め、親子でのステージ共演が実現しました。
若いアーティストや初回から皆勤賞の『ももいろクローバーZ』など、豪華で多種多様な出演者の皆さん。
記念日や音楽フェスの開催。
松崎さんのバイタリティや情熱は年齢を重ねても衰えていくことがありませんね。
まさに「日に焼けた肌で多くの人に親しまれており」という言葉どおりです!
親友の西田敏行さんと松崎しげるさん
2024年10月17日に76歳で天国に旅立たれた西田敏行さん。
私の中で特に印象が強い西田さんは、小学生の頃に見ていたドラマ『池中玄太80キロ』、ヒット曲『もしもピアノが弾けたなら』、『西遊記』です(古いものばかりですが)。
小さい頃から見ていた人が亡くなる。
会ったこともない人ではありましたし、特にすごくファンである・・・というわけではないのですが、小さい頃から見ていたこともあったせいか、なんだか悲しくなりましたね。
すぐに、spotifyで『もしもピアノが弾けたなら』を聞きました。
そんな西田さんは、実は松崎さんと若い頃からの親友だったのです。
松崎さんが売れない不遇の時代、事務所の先輩で俳優の『柴俊夫』をさんの紹介で、松崎さんと同じようにまだ売れていなかった西田さんと知り合ったのです。
2人(松崎さん・西田さん)は意気投合し、飲み友達となりました。
そんな2人はある日、まだカラオケなどがない時代だったこともあり、店にあったギターで松崎さんがギターを弾き、西田さんが即興で歌を歌う。
中には下ネタばかりの歌もあったりだったそうですが、2人のそうした即興で店は盛り上がり、飲み代をタダにしてもらったりボトルやつまみをサービスしてもらったり・・・。
それが巷で噂になり、TBSのプロデューサーがその噂を耳にしたことがきっかけで、『西やん松ちゃんのハッスル銀座』に起用され、2人にとっての初のレギュラー番組となったそうです。
そんな2人、歳を重ねた2022年、こんな曲を出していました。
売れない時代を共に過ごし、共に初のレギュラー番組。
2人は大親友となったそうです。
そんな大親友の死。
さぞかし、松崎さんは悲しかったことでしょう。
生ある限り歌うしかない。今まで一緒にやってきたアーティストたちが天国に召されている方も多いので、歌い継いで行くのが僕の使命だと思う。西田敏行にしろ、大橋純子にしろ自分に近かった人たちに披露して、最高の供養になるんじゃないかな
『デイリースポーツ 2024.11.12』の記事より引用
『Fender(R)×ハローキティ製品発表会』イベントでの会見で「来年挑戦したいこと」の質問にこう答えていました。
同世代が一人、また一人と天国へ旅立つのを間近で感じ、とても悲しいとは思いますが、それでも自分のやることをしっかり見据え、歩き続けている松崎さんには大袈裟ですが尊敬の念を感じます。
考察したまとめ
いかがだったでしょうか??
今回自分なりに考察してわかったことは、
・高校時代、野球部の練習中に怪我をして野球を諦めた
・『愛のメモリー』の原曲は、スペインの音楽祭で大好評だった
・事務所や自宅にも日焼けマシーンがある
・9月6日は「松崎しげるの日」である
・『黒フェス』という音楽祭を開催している
・故西田敏行さんとは飲み友達であり大親友であった
コメント